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第3話 全ての喪失

Author: 板野かな
last update publish date: 2026-09-01 21:41:43

 それから、どのように着物を整え、どのようにあの屋敷を飛び出したのか、麗香れいかにはほとんど記憶がなかった。

 重い扉を押し開けたことも、朝露あさつゆに濡れた庭を横切ったことも、すべてが薄いもやの向こうにある。

 ただ、そこが誰の屋敷なのかを確かめる余裕もなく、一刻も早く逃げなければならないという思いだけに追い立てられ、覚えのある道を無我夢中で辿った。

 夜明けの霞の向こうに見慣れた黒塀が現れた時、麗香はようやく、自分が桐生きりゅう家へ帰り着いたことを知った。

 春の朝は静かだった。

 庭の枝垂しだれ桜は昨夜と変わらず淡い花を揺らし、使用人たちは何事もなかったように一日の支度を始めている。

 世界は何一つ変わっていない。

 変わってしまったのは、自分だけだった。

 人目を避けて離れへ戻ると、麗香は障子しょうじを閉め、鏡台の前へ座った。

 着物のえりをわずかに開けば、白い首筋には鮮やかな印が残されている。

 昨夜の出来事は夢ではなかった。

 指先で触れると、微かな痛みとともに、温かな腕の感触が蘇った。

 額へ落とされた口づけと、耳元で何かを囁いた低い声。

 それだけは不思議なほど優しく、思い出すたび、恐怖とは異なる震えが胸の奥を走った。

「……忘れなくては」

 白粉おしろいを重ねても、紅い痕は消えなかった。

 白い粉の下から、刻まれた運命だけがいっそう鮮明に浮かび上がる。

 せめて香りだけでも紛らわせようと、麗香は香炉こうろ沈香じんこうを焚いた。

 細い煙が朝の光へ溶けてゆく。

 しかし、馴染んだ香の奥には、まだ昨夜の男の気配が残っていた。

 冷たい夜気と、乾いた木と、微かな鉄の匂い。

 知らないはずの香りが、なぜか胸を締めつけた。

 その時、廊下の向こうで足音が止まった。

「昨夜、君はどこにいた?」

 障子の外から響いた声に、麗香の手が止まる。

 返事を待たずに戸が開き、朝の光を背にした九条くじょう慎太郎しんたろうが立っていた。

 その端正な顔には疲労が滲んでいたが、麗香を見る眼差しには、なお彼女を案じる婚約者の色が残されている。

 それが、ひどく白々しく思えた。

「探したんだ。何も告げずにいなくなるなど――」

「……私を裏切って、珠緒たまおとご一緒でしたのに?」

 慎太郎の言葉が途切れた。

 麗香は襟元を押さえたまま、静かに彼を見つめた。

「あれは違う。珠緒が危険な目に遭ったと言って取り乱していた。助けようとして、僕も気が動転してしまっただけだ」

「そうですか。それで彼女とあんな……はしたないことを」

 口にした途端、その言葉はそのまま自分の胸へ突き刺さった。

 昨夜、自分もまた見知らぬ殿方へ身を委ねてしまった。

 あの時は抗うすべもなかった。

 それでも、この身が汚れてしまったという事実だけは、消えることはなかった。

「愛しているのは君だけだ、麗香」

 かつてなら、その一言だけでどれほど救われただろう。

 けれど、今はもう、何も感じなかった。

「では、最後に私の願いをお聞きください」

 麗香は乱れかけた呼吸を整え、真っ直ぐに背を伸ばした。

「真実を公にしたうえで、正式に婚約を解消してくださいませ」

「麗香」

「それが、あなたから頂ける最後の誠意です」

 慎太郎の顔から血の気が引いた。

 その時、廊下の向こうから慌ただしい衣擦れの音が近づき、珠緒が部屋へ駆け込んできた。

「お姉様!」

 薄桃色の着物をまとった珠緒の瞳には、すでに涙が浮かんでいた。

 昨日までの麗香なら、その涙を疑いもしなかっただろう。

 けれど今は、その一粒一粒が芝居であることを、嫌というほど思い知っていた。

「昨夜はどこへ行ってしまわれたのです。私たちを恨んで、見知らぬ殿方とお会いになっていたのでしょう?」

「何を――」

「だって、そうでなければ、そのお首の痕は何なのですか」

 麗香は息を呑み、とっさに襟を押さえた。

 だが、遅かった。

 慎太郎の視線が首筋へ注がれる。

 白粉で隠しきれなかった二つの痕を認めた瞬間、その目に浮かんだのは悲しみの色ではなかった。

「裏切ったのは君のほうだったのか……」

「私が先に何を見たか、もうお忘れですか」

「あれは一時いっときあやまちだ。だが君は、自ら他の男に身を任せたのだろう」

 その声には、先ほどまでの懇願の色はなかった。

 まるで自分の罪が麗香の首筋の痕によって帳消しになったとでもいうように、慎太郎は深く息を吐いた。

「それでも、僕は君を見捨てない」

「……何をおっしゃっているのです」

「婚約者には戻れなくても構わない。生活は僕が保証する。人目につかぬ屋敷を用意し、君は一生、僕が囲ってやる」

 麗香は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。

 やがてそれが、妻ではなく愛人として日陰に生きろという申し出なのだと悟り、胸の底に残っていた最後の情が静かに冷えてゆく。

「お断りいたします」

「麗香、意地を張るな。今の君を正式な妻に迎える男など――」

「たとえ一人もいなくとも、あなたの愛人になるつもりはございません」

 慎太郎は唇を結んだまま何も言い返せなかった。

 麗香を愛人として囲うという申し出が、どれほどの侮辱であるかだけは、自分でも理解していたのだろう。

 と、そのとき。

 その重苦しい沈黙を破るように、廊下から幾人もの慌ただしい足音が近づいてきた。

「麗香さん、あなたという子は……!」

 そこには、騒ぎを聞きつけて現れたらしき継母が、怒りに顔を歪めて立っていた。

「話は珠緒から聞きましたよ。この恩知らずが!」

 言い終えるより早く、継母の手が振り上げられる。

 乾いた音が部屋に響き、麗香の頬が勢いよく横へ弾かれた。

「香りも持たぬ欠陥品を、九条様が拾ってくださるとおっしゃっているのですよ。それを断るなど、どこまで桐生家へ恥をかかせれば気が済むのです!」

「お母様、どうかおやめください」

 珠緒が涙を拭いながら継母の腕へ縋ったが、その唇に微かな笑みが浮かんでいるのを麗香は見逃さなかった。

「本邸へ来なさい。お父様の前で、すべて申し開きをしてもらいます」

 麗香は両腕を掴まれ、逃げる間もなく父の書斎へ引き立てられた。

 桐生きりゅう和馬かずまは話を聞き終えるなり、机上の写真立てを掴んだ。

 そこには、まだ幼い麗香と、亡き母が寄り添う姿が収められていた。

「やはり、お前はあの女の娘だ」

 写真立てが床へ叩きつけられ、硝子ガラスの砕ける音が響く。

「お父様!」

 初めて麗香の声が乱れた。

 和馬は母の面影が残る写真を革靴で踏みつけ、冷たく吐き捨てた。

「お前たち母娘おやこは、桐生家最大の汚点だ」

 硝子の下で、母の微笑みが歪んだ。

 麗香は駆け寄ろうとしたが、継母に腕を押さえつけられる。

 頬の痛みも、首筋の印も、もはや感じなかった。ただ、母の顔が靴底の下へ沈んでゆく光景だけが、胸の奥を切り裂いていた。

 その静寂の中、珠緒が父の傍らへ歩み寄った。

「お父様」

 涙に濡れた声は、ひどく慎ましく響いた。

 震える肩も、潤んだ瞳も、か細い声も。

 そのすべてが父の情を引くための演技であることを、今の麗香にはもう見抜けていた。

「お姉様のなさったことが世間へ知れれば、桐生家の名は地へ落ちてしまいます」

 そして珠緒は、姉を案じる妹の顔のまま、静かに告げた。

「家名を守るためにも、お姉様には密かに始末されていただくしかございません」

 その言葉を聞いた瞬間、麗香は悟った。

 婚約者を失い、家族を失い、亡き母の名誉までも踏みにじられた。

 そして今度は――命まで奪われようとしている。

 この家には、もう自分の居場所はどこにもなかった。

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