LOGIN それから、どのように着物を整え、どのようにあの屋敷を飛び出したのか、
夜明けの霞の向こうに見慣れた黒塀が現れた時、麗香はようやく、自分が
世界は何一つ変わっていない。
変わってしまったのは、自分だけだった。 人目を避けて離れへ戻ると、麗香は
指先で触れると、微かな痛みとともに、温かな腕の感触が蘇った。
額へ落とされた口づけと、耳元で何かを囁いた低い声。 それだけは不思議なほど優しく、思い出すたび、恐怖とは異なる震えが胸の奥を走った。「……忘れなくては」
せめて香りだけでも紛らわせようと、麗香は
冷たい夜気と、乾いた木と、微かな鉄の匂い。
知らないはずの香りが、なぜか胸を締めつけた。その時、廊下の向こうで足音が止まった。
「昨夜、君はどこにいた?」
障子の外から響いた声に、麗香の手が止まる。
返事を待たずに戸が開き、朝の光を背にした「探したんだ。何も告げずにいなくなるなど――」
「……私を裏切って、慎太郎の言葉が途切れた。
麗香は襟元を押さえたまま、静かに彼を見つめた。「あれは違う。珠緒が危険な目に遭ったと言って取り乱していた。助けようとして、僕も気が動転してしまっただけだ」
「そうですか。それで彼女とあんな……はしたないことを」口にした途端、その言葉はそのまま自分の胸へ突き刺さった。
昨夜、自分もまた見知らぬ殿方へ身を委ねてしまった。 あの時は抗う「愛しているのは君だけだ、麗香」
かつてなら、その一言だけでどれほど救われただろう。
けれど、今はもう、何も感じなかった。「では、最後に私の願いをお聞きください」
麗香は乱れかけた呼吸を整え、真っ直ぐに背を伸ばした。
「真実を公にしたうえで、正式に婚約を解消してくださいませ」
「麗香」 「それが、あなたから頂ける最後の誠意です」慎太郎の顔から血の気が引いた。
その時、廊下の向こうから慌ただしい衣擦れの音が近づき、珠緒が部屋へ駆け込んできた。
「お姉様!」
薄桃色の着物をまとった珠緒の瞳には、すでに涙が浮かんでいた。
昨日までの麗香なら、その涙を疑いもしなかっただろう。 けれど今は、その一粒一粒が芝居であることを、嫌というほど思い知っていた。「昨夜はどこへ行ってしまわれたのです。私たちを恨んで、見知らぬ殿方とお会いになっていたのでしょう?」
「何を――」 「だって、そうでなければ、そのお首の痕は何なのですか」麗香は息を呑み、とっさに襟を押さえた。
だが、遅かった。 慎太郎の視線が首筋へ注がれる。 白粉で隠しきれなかった二つの痕を認めた瞬間、その目に浮かんだのは悲しみの色ではなかった。「裏切ったのは君のほうだったのか……」
「私が先に何を見たか、もうお忘れですか」 「あれはその声には、先ほどまでの懇願の色はなかった。
まるで自分の罪が麗香の首筋の痕によって帳消しになったとでもいうように、慎太郎は深く息を吐いた。「それでも、僕は君を見捨てない」
「……何をおっしゃっているのです」 「婚約者には戻れなくても構わない。生活は僕が保証する。人目につかぬ屋敷を用意し、君は一生、僕が囲ってやる」麗香は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
やがてそれが、妻ではなく愛人として日陰に生きろという申し出なのだと悟り、胸の底に残っていた最後の情が静かに冷えてゆく。「お断りいたします」
「麗香、意地を張るな。今の君を正式な妻に迎える男など――」 「たとえ一人もいなくとも、あなたの愛人になるつもりはございません」慎太郎は唇を結んだまま何も言い返せなかった。
麗香を愛人として囲うという申し出が、どれほどの侮辱であるかだけは、自分でも理解していたのだろう。と、そのとき。
その重苦しい沈黙を破るように、廊下から幾人もの慌ただしい足音が近づいてきた。「麗香さん、あなたという子は……!」
そこには、騒ぎを聞きつけて現れたらしき継母が、怒りに顔を歪めて立っていた。
「話は珠緒から聞きましたよ。この恩知らずが!」
言い終えるより早く、継母の手が振り上げられる。
乾いた音が部屋に響き、麗香の頬が勢いよく横へ弾かれた。「香りも持たぬ欠陥品を、九条様が拾ってくださるとおっしゃっているのですよ。それを断るなど、どこまで桐生家へ恥をかかせれば気が済むのです!」
「お母様、どうかおやめください」珠緒が涙を拭いながら継母の腕へ縋ったが、その唇に微かな笑みが浮かんでいるのを麗香は見逃さなかった。
「本邸へ来なさい。お父様の前で、すべて申し開きをしてもらいます」
麗香は両腕を掴まれ、逃げる間もなく父の書斎へ引き立てられた。
◇
「やはり、お前はあの女の娘だ」
写真立てが床へ叩きつけられ、
「お父様!」
初めて麗香の声が乱れた。
和馬は母の面影が残る写真を革靴で踏みつけ、冷たく吐き捨てた。「お前たち
硝子の下で、母の微笑みが歪んだ。
麗香は駆け寄ろうとしたが、継母に腕を押さえつけられる。 頬の痛みも、首筋の印も、もはや感じなかった。ただ、母の顔が靴底の下へ沈んでゆく光景だけが、胸の奥を切り裂いていた。その静寂の中、珠緒が父の傍らへ歩み寄った。
「お父様」
涙に濡れた声は、ひどく慎ましく響いた。
震える肩も、潤んだ瞳も、か細い声も。 そのすべてが父の情を引くための演技であることを、今の麗香にはもう見抜けていた。「お姉様のなさったことが世間へ知れれば、桐生家の名は地へ落ちてしまいます」
そして珠緒は、姉を案じる妹の顔のまま、静かに告げた。
「家名を守るためにも、お姉様には密かに始末されていただくしかございません」
その言葉を聞いた瞬間、麗香は悟った。
婚約者を失い、家族を失い、亡き母の名誉までも踏みにじられた。 そして今度は――命まで奪われようとしている。 この家には、もう自分の居場所はどこにもなかった。「それは――」 見習い女中は、怯えるように唇を震わせた。「……姉から、頼まれたのでございます」「お姉様から?」 麗香が聞き返すと、娘は泣きながら頷いた。「姉は、桐生様のお屋敷で奉公しております。今朝、こちらへ訪ねてきて……どうしても話したいことがあるからと、裏口で少しだけ会いました」 今朝――。 その言葉に、麗香は眉を寄せた。 自分が御影家へ来たのは、昨夜のことだ。 それなのに、夜が明けるや否や、この娘の姉は動いていたことになる。「何を頼まれたのです?」 女中頭の志乃の問いに、娘は俯いた。「麗香様が……御影家の皆様から信用を失うようにしろ、と」 小夜が息を呑む。「それで、母様の香箱を?」「申し訳ございません!」 娘は床へ額がつきそうなほど深く頭を下げた。「小夜様が、あの香箱を何より大切になさっていることは存じておりました。なくなれば必ずお探しになると思って……それを麗香様のお部屋へ隠せば、きっと……」「私が盗んだと思われる、と」「……はい」 掠れた声が落ちた。 麗香は香箱を見る。 黒漆の蓋に描かれた銀の月が、夕暮れの光を受けて淡く浮かんでいた。 もし香りに気づかなければ、御影家へ来た翌日から、義妹の私物を盗んだ女として暮らすことになっていただろう。「姉様も、泣いていました。私に何度も謝って……でも、断れないのだと」 娘が必死に言葉を継ぐ。「なぜですの?」 小夜が問う。 娘はしばらく答えられなかった。 やがて、観念したように口を開く。「父が長く病を患っております」 震える声だった。「薬代がかさんで、暮らしていけ
それから麗香と小夜は、使用人たちとともに屋敷の中を探し始めた。 小夜の部屋はもちろん、隣の書斎や客間、廊下の飾り棚まで一つずつ確かめていく。 香箱は小ぶりなものだという。 どこかへ紛れ込んだだけならば、さほど見つけにくい品ではないはずだった。「小夜様。今朝、お部屋を出られる時には、文机の上をご覧になりましたか?」「いいえ。女学校へ遅れそうでしたから、慌ただしく支度をして……」「でしたら、昨夜から今朝までの間に動かされたのですね」 麗香は歩きながら、昨夜からの人の出入りを一つずつ聞いていった。 小夜も初めは硬い声で答えていたが、やがて自分から「あちらの部屋も見てみましょう」と言い出すようになった。 疑いが晴れたわけではない。 それでも、ただ疑われているだけよりはよかった。 何より麗香は、どうしても香箱を見つけたかった。 亡き母の形見を失う痛みならば、自分にも分かる。 踏みにじられた写真の中で、それでも優しく微笑んでいた母の顔が、今も目を閉じれば鮮明に浮かんでくる。 小夜にも、その香箱を開くたびに蘇る母の面影があるのだろう。「……ありませんわね」 小夜がぽつりと漏らした。 探し始めて、もう半刻ほどになる。「まだです。もう少し探してみましょう」 麗香がそう答えた時だった。「小夜様!」 廊下の向こうから、一人の女中が駆けてきた。 息を切らし、その顔には明らかな動揺が浮かんでいる。「どうしたのです?」「香箱が……見つかりましてございます」「本当に!?」 小夜の顔が一瞬にして明るくなる。「どこにありましたの?」「それが……」 女中は言い淀んだ。 そして一度、麗香の顔を窺う。「麗香様のお部屋に」 小夜の表情から、喜びが消え
御影家で迎えた最初の朝、麗香は見慣れない天井をしばらく眺めていた。 厚い帳の隙間から春の光が差し込み、昨夜は闇に沈んでいた象牙色の壁紙を淡く照らしている。窓の外からは小鳥の声が聞こえ、その向こうでは庭師が掃き寄せているのだろう、竹箒の乾いた音が一定の間隔で響いていた。 静かな朝だった。 枕元の小箱へ目を向ける。 その中には、昨夜、朔から渡された離縁状が収められていた。 ――妻にしたからといって、お前のすべてが俺のものになったわけではない。 昨夜の低い声が、もう一度耳の奥で蘇る。 麗香はそっと小箱の蓋を閉じた。 身支度を終えて階下へ降りると、食堂にはすでに朔がいた。 軍服姿で新聞へ目を通している。「おはようございます」「ああ」 相変わらず簡潔な返事だった。 麗香が向かいの席へ腰掛けたところで、廊下の向こうから足音が近づいてきた。「兄様」 若い女の声だった。 朔が新聞から目を上げる。「小夜か」 入口に立っていたのは、十六ほどに見える少女だった。 若草色の着物に、白い小花をあしらった帯留め。黒髪は艶やかに結い上げられ、顔立ちは朔とどこか似ている。けれど兄のような鋭さはなく、まだ少女らしい柔らかさが残っていた。 ただし――麗香へ向けられた目には、笑みがなかった。「こちらが?」「ああ」 朔が短く答える。「麗香。妹の小夜だ」 ――妹。 胸の奥で、何かが小さく強張った。 一瞬だけ、珠緒の面影が重なる。 麗香はそれを悟られぬよう、静かに頭を下げた。「初めまして。麗香でございます」 小夜もまた、華族の令嬢らしい申し分のない所作で頭を下げる。「御影小夜と申します」 声も礼儀正しい。 それでも、その距離は明確だった。 小夜は麗香の隣へ座らず、朔の側の席へ腰掛けた。
華族会館を離れた自動車の中で、麗香は膝の上に重ねた手をじっと見つめていた。 窓の外では、夜の帝都が後ろへ流れてゆく。 瓦斯灯の明かり。軒を連ねる商店。夜更けだというのに人影の絶えない大通り。見慣れていたはずの景色が、今夜はどこか遠い国のもののように思えた。 もう、桐生家へは帰らない。 その事実だけが、車輪の音に合わせて胸の奥へ沈んでいく。 向かいに座る朔は、窓の外へ目を向けたまま何も言わなかった。 黒い軍服。端正な横顔。華族会館では、ただそこに立っているだけで人々を黙らせていた男。 この人が、今から自分の夫になる。 そう考えても、まだ現実味はなかった。「先ほどの話だが」 不意に朔が口を開いた。「はい」 「これは三年間の婚姻と考えている」 麗香は顔を上げた。「三年……でございますか」 「ああ。その間、お前には御影家の妻でいてもらう。ただし、俺かお前のどちらかが本当の番を見つけた場合は、その時点で終わりだ」 迷いのない言葉だった。「俺はお前に愛情を求めない。お前も、俺に求める必要はない」 あまりにも乾いた約束だった。 けれど麗香は、傷つかなかった。 愛していると囁きながら裏切られるよりも、最初からそこにないものとして扱われるほうが、今の自分にはずっと信じられる。「……承知いたしました」 それだけ答えると、朔もそれ以上は何も言わなかった。 再び車輪の音だけが二人の間を満たす。 やがて自動車は帝都の中心部を抜け、夜の静けさが濃くなり始めた頃、高い黒塀に囲まれた屋敷の前で速度を落とした。 鉄門が静かに開き、自動車は広い敷地へ滑り込んでいく。 奥に見えてきたのは、麗香が想像していた軍閥の屋敷とは少し違う建物だった。 石造りの堂々たる洋館でありながら、左右には瓦屋根の和館が連なり、庭には松と桜が静かに枝を伸ばしている。 正面玄関の灯は柔らかな橙色を帯び、深
「誰が、俺の女に触れていいと言った?」 低く放たれたその言葉は、決して声を荒らげたものではなかった。 それでも、春風に揺れていた桜の枝さえ動きを止めたように、庭園には重い静寂が落ちた。 御影朔の前で、先ほどまで麗香を連れ去ろうとしていた桐生家の使用人たちは、視線すら上げられずに立ち尽くしていた。 「……御影少将」 和馬がようやく口を開いた。 声には努めて平静を装っているものの、その額には細かな汗が浮かんでいる。 「これは、桐生家の内々の問題でございます。いかに御影家のご当主といえど、他家の家中へ口を挟まれるのは――」 「内々の問題なら、人前で娘を処分すると宣言するものではないな」 朔は振り返りもしなかった。 黒い軍服の背に麗香を庇ったまま、ただ淡々と告げる。 和馬は言葉に詰まり、周囲の華族たちから小さなざわめきが起こった。 冷酷軍閥と恐れられる若き少将が、契りの香すら持たぬ令嬢を庇っている――それだけで、明日の帝都を駆け巡るには十分すぎる噂だった。 「……御影様」 麗香は、目の前の広い背中へ恐る恐る声をかけた。 なぜ、この人は自分を庇うのだろう。 先ほど初めて名を知ったばかりの、帝都中から恐れられる軍人。 その背中に、腕へ抱かれた時のあの夜の温もりが重なる。 けれど麗香は、すぐにその考えを押し殺した。 あの夜の男の顔さえ、自分は知らないのだから。 「……どうして、私などを」 麗香の問いに、朔はようやくこちらを振り返った。 黒い瞳が静かに麗香を見下ろす。 その目には、同情も。 欲望も。 ましてや、一目で恋に落ちた男の熱など、何一つ浮かんでいなかった。 「お前は今夜、この家へ戻れば殺される」 あまりにも端的な言葉に、麗香は息を呑む。 「そして俺には、妻が必要だ」 「……妻?」 周囲のざわめきが、一段大きくなった。 和馬の顔色が変わる。 欄干の上から成り行きを見下ろしていた珠緒も、初めてその柔らかな笑みを消していた。 朔は何事もないように続ける。 「御影家は軍功によって立った家だ。旧華族から見れば、今でも成り上がりに過ぎん。家を盤石にするには、古い家柄との縁が要る」 そう言って、朔は麗香へ目を向けた。 「
夜会は、なお華やぎの最中にあった。 水晶のシャンデリアは幾千もの光を降らせ、円舞曲は絶えることなく大広間を満たし、色とりどりの衣装をまとった華族たちは、春の終わりに咲き誇る花々のように笑みを交わしている。 その輪の中にありながら、御影朔だけは誰とも言葉を交わそうとはしなかった。 若き陸軍少将。 新政府を支える御影家の若き当主。 戦場では鬼神のごとき采配を振るい、政敵には容赦なく刃を向けることから、帝都では「冷酷軍閥」と囁かれる男である。 今宵、彼がこの夜会へ姿を見せた理由もまた、決して社交を楽しむためではなかった。 御影家は新興華族である。 軍功によって家名を興した以上、旧華族との結びつきを強めなければ、その地位は盤石とは言えない。 そのためには婚姻が必要だった。 家臣たちは皆、今夜こそ朔が伴侶を決めるものと期待している。 朔自身も、それを拒むつもりはなかった。 愛などなくとも構わない。 家のためなら結婚くらい受け入れる。 そう割り切って、この場へ足を運んだのである。 しかし――。 誰一人として、彼が心を動かされる女はいなかった。 香水を重ねた令嬢。 香木を焚き染めた袖。 笑みも、言葉も、立ち居振る舞いも非の打ちどころはない。 それでも、彼女たちから漂う香りは、どこか作られた花のように感じられてならなかった。 朔は人の顔より先に香りを覚える。 香りは偽れない。 怒りも。 嫉妬も。 恐怖も。 欲望も。 戦場では、それだけを頼りに幾度も生死を分けてきた。 だからこそ、磨き上げられた笑顔の奥に隠された打算や虚飾が、香りとなって鼻を掠めるたび、胸の内だけが静かに冷えていく。(……違う) 誰でもいいはずだった。 それでも、ここには彼が求めるものはなかった。







